10月の記念日・祝日(毎日の読書より)

10 月1日 聖テレジア(幼いイエスの)おとめ教会博士

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1873年にフランスのアランソンに生まれ、若くしてリジューのカルメル会修道院に入った。
謙遜と福音的な素直さ、そして神に対する絶対の信頼にもとづく生活を送り、
言葉と模範によって、修練者などに同じ生き方を教えた。
人々の救いと教会の発展のために自分の命をささげ、 1897年9月30に死去。

10月2日  守護の天使

守護の天使の記念は、十六世紀にいくつかの教会で祝われ、ローマ教会暦には
1615年に取り入れられた。
いつくしみ深い神が天使を遣わして、わたしたちが神の国に入ることができるよう
守ってくださることを思い起こす記念日である。

10月4日  聖フランシスコ(アシジ)修道者

1182年にイタリア中部のアシジに生まれる。
青年時代は放蕩生活を送ったが、後に回心して父親から譲り受けた遺産をすべて放棄し、
神に固く結ばれることを志した。
貧しさを選んで福音に従って生活し、神ヘの愛をすべての人に説いた。
同志のために優れた会則を作り、これはやがて教皇によって認可された。
また、女子修道会や在俗信徒のための第三会などを設立し、
未信者にも福音を宣べ伝えた。 1226年に死去。

10月6日  聖ブルーノ司祭

1035年頃、ケルンに生まれる。パリで教育を受け、司祭に叙階された後は神学を教えた。
しかし隠遁生活を志し、カルトゥジオ修道院を設立した。
やがてウルバノニ世教皇によって顧間としてローマヘ招かれ、その協力者となった。
1101年、カラブリア(イタリア南部)のカタンツァーロ近郊で死去。

10月7日  ロザリオの聖母

この記念日は、1571年のレパントの海戦でキリスト教徒がオスマン・トルコに対して
勝利を収めたことを記念して、ピオ五世教皇によって定められた。
この勝利は、 ロザリオの祈りによってもたらされた聖母の助けによるものであると信じられていた。
きょうの祝日は、神の御子の受肉、受難、復活に特別に結ばれたマリアに導かれて、
キリストの秘義について黙想するよう励ましている。

10月9日 聖ディオニジオ司教と同志殉教者

ツールの聖グレゴリオによれば、ディオニジオは三世紀の中頃に、 ローマからフランスに来た。
パリの初代司教になり、パリの近くで仲間の聖職者二人とともに殉教した。

10月9日 聖ヨハネ・レオナルディ司祭

1541年、中部イタリアのトスカナ地方のルッカ近郊に生まれる。
薬学を学んだが、司祭職への望みを果たすためそれをあきらめた。
説教、特に子どもたちヘの要理説教に専念。
1574年に神の母の聖職者修道会を創立したが、そのために多くの苦難を耐え忍んだ。
また、信仰を広めるために司祭の会を組織した。
それは、やがて教皇たちによって創設されたローマの宣教地司祭養成学院の母体となった。
ヨハネはさらに、愛と賢明さをもって、多くの修道会の刷新のために努力した。
1609年、ローマで死去。

10月11日 聖ヨハネ23世教皇

1881年に北イタリアのベルガモ県ソット・イル・モンテで生まれ、
アンジエロ・ジユゼツペ・ロンカリと名づけられた。
11歳でベルガモの小神学校に入り、
その後ローマの教皇庁立神学校で学業を修め、
1904年に司祭に叙階され、ベルガモの司教の秘書を務めた。
1921年に、イタリアのための教皇庁信仰弘布会の中央評議会議長
として教皇庁での奉職を始めた。
1925年には、ブルガリアの教皇派遣特使となり、さらに教皇代理に就任。
1935年にはトルコとギリシアの教皇代理となり、
1944年にフランスの教皇大使に任命された。
1953年に枢機卿に親任され、ベネチアの総大司教に任命された。
そして、 1958年に教皇に選出されると、ローマの教区会議を開催し、
教会法典改訂のための委員会を設置し、第ニバチカン公会議を招集した。
1963年6月3日の晩に死去。

10月14日  聖カリスト1世教皇殉教者

カリストは奴隷であったと伝えられている。
自由の身になると、ゼフィリノ教皇によって助祭に叙階され、やがてその後継者となった。
キリスト養子説と神の三位を神の三つの存在様式とみなす説(モダリズム)を
主張する異端者たちに反対した。
322年に殉教し、アウレリア街道沿いの墓地に埋葬された。

10月15日 聖テレジア(イエスの)おとめ教会博士

1515年、スペインのアビラに生まれる。
カルメル会に入会して優れた完徳の道を歩み、多くの神秘体験を得た。
同会の改革に着手し、多くの苦難を味わったが、不屈の精神でそれを克服した。
自らの霊的体験にもとづく優れた教えを収めた書物を著した。
1582年にアルバで死去。

10月16日 聖ヘドビッヒ修道女

1174年頃、バイエルンに生まれる。シレジア侯と結婚し、七人の子どもをもうけた。
敬虔な生活を送り、貧者や病者の世話をし、彼らのために病院を設立した。
夫の死後、トレジェビツェの修道院に入り、1243年に同地で死去。

聖マルガリタ・マリア・アラコクおとめ

1647年、フランスのオータン教区内に生まれる。
パレー・ル・モニアルの訪問会修道院に入り完徳の道に励み、神秘体験を得、
特にイエスのみ心への信心に関する啓示を受け、その信心を教会に広めるために大いに努めた。
1890年10月17日に死去。

10月17日 聖イグナチオ(アンチオケ)司教殉教者

イグナチオはペトロの二代後の司教としてアンチオケの教会を治めた。
野獣の餌食となる刑を受けるためにローマに護送され、107年にトラヤヌス帝の治世のもとで殉教した。
ローマヘ向かう旅の途中で、各地の教会に7通の手紙を送り、キリスト、教会の構造、
キリスト者の生活などについて優れた教えを説いた。
アンチオケではすでに四世紀から、この日を彼の記念日として祝っていた

10月18日聖ルカ福音記者

異教徒の家庭に生まれたが、やがて改宗し、使徒パウロの同志となり、
パウロの教えに従って福音書を書き記した。
さらに、初代教会について『使徒言行録』と題する書物を書き、
パウロが最初にローマに赴くまでの初代教会のさまざまな出来事を書き記した。

10月19日  聖ヨハネ・ブレブーフ
聖イザーク・ジョーグ司祭と同志殉教者

1642年から1649年にかけて、北アメリカにキリスト教を広めることに努めていた8人の
イエズス会士が、残酷きわまる拷間の末、ヒューロン族とイロクワ族によつて殺害された。
イザーク・ジョーグは1647年10月18日、ヨハネ・ブレブーフは翌年の3月16日に殉教した。


聖パウロ(十字架の)司祭

1694年、リグリア(イタリア北西部)のオバダに生まれ、青年時代は父の商売を助けた。
やがて完徳の道に心をひかれるようになり、すべての持ち物を放棄して貧者と病者に仕え、
仲間を集め、御受難修道会を創立した。
司祭になると、人々の救霊のためにいっそう働き、いくつかの修道院を建て、
使徒的な働きに専念し、厳しい苦行に励んだ。
1775年10月18日、ローマで死去。

10月22日  聖ヨハネ・パウロ2世教皇

教皇ヨハネ・パウロニ世(カロル・ヨゼフ・ヴォイティワ)は1920年にポーランドのワドヴィッチに生まれた。
司祭叙階の後、ローマで神学を修めて帰国し、司牧活動や神学教育に携わった。
クラクフ教区の補佐司教を経て、 1964年に同教区大司教に任命され第ニバチカン公会議に参加。
1978年10月16日、ローマ教皇に選出され、ヨハネ・パウロニ世を名乗った。
とくに家庭、青年、病者に対する使徒的熱意にあふれ、世界各地へ司牧訪間を行った。
教導職の務めを多くの分野で果たし、『カトリック教会のカテキズム』ならびにラテン教会と
東方教会の『教会法典』を公布した。
2005年4月2日(復活節第二主日〔神のいつくしみの主日〕の前晩)にローマで死去。

10月23日  聖ヨハネ(カペストラノ)司祭

1386年、アブルツツィ地方(イタリア中部)のカペストラノに生まれる。
ペルージアで法律の勉強に励み、しばらくの間、判事を務めた。
フランシスコ会に入り司祭に叙階されると、キリスト者の道徳を高め、異端と戦うために
ヨーロッパ全上で説教活動を行った。
1456年、ウィラク(現在のクロアチアのイロク)で死去。

10月24日  聖アントニオ・マリア・クラレ司教

1807年、スペインのサレントに生まれる。
司祭に叙階されて数年間は、説教をしながらカタロニア地方を巡回した。
クラレチァン官一教会を創立し、キユーバ島の司教に任命され、人々の救霊のために大いに貢献した。
スペインに戻ると、教会に反対する人々から多くの苦難を受けたが、それを耐え忍んだ。
1870年、フランスのフォンフロアードで死去。

10月28日  聖シモン  聖ユダ使徒

シモンの名は、使徒の名簿の11番目に記されている。
シモンについては、「熱心党のシモン」と呼ばれていたことのほかは何も知られていない。
タダイとも呼ばれるユダは、最後の晩餐のとき、「主よ、わたしたちにはご自分を現そうとなさるのに、
世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」(ヨハネ14.22)とイエスに尋ねた使徒である。