2月の記念日・祝日(毎日の読書より)

2月2日  主の奉献

イエスが生まれて四十日後に、律法に従って両親の手でエルサレムの神殿で
神にささげられたことを記念する祝日で、エルサレムでは五世紀に、
ローマでは七世紀に祝われるようになった。
十世紀からは西方の典礼書では「マリアの清めの祝日」
と呼ばれるようになったが、 1960年の典礼刷新で、
東方教会の伝統に合わせて再び「主の奉献の祝日」と名づけられた。

2月3日 聖ブラジオ司教殉教者

四世紀のアルメニアのセバステの司教。
ブラジオに対する崇敬は中世以降、教会中に広まった。

 

2月3日 聖アンスガリオ司教

9世紀初めにフランスで生まれ、コルビーの修道院で学問を修めた。
826年、福音宣教のためにデンマークに向かったものの
成果をあげることができなかったが、後にスウェーデンで大きな成功を収めた。
ハンブルクの司教に選ばれてグレゴリオ四世教皇によって承認され、
デンマークとスウェーデンのキリスト教化を担当する教皇使節に任命された。
福音宣教にあたって多くの困難に遭ったが、強い精神力でそれを克服した。
865年に死去。

2月5日  日本26聖人殉教者

日本26聖人の一人、パウロ三木は1564年から1566年の間に生まれた。
イエズス会に入会して福音を宣べ伝え、大きな成功を収めた。
やがてキリスト者に対する迫害が激しくなると、他の25人と共に捕らえられ、
残酷に扱われて嘲笑を受けた。
そして、ついに長崎に連行され、1597年2月5日、はりつけにされて殉教した。
26名には、20名の日本人のほか、スペイン、メキシヨ、インドの出身者がいた。
彼らは1862年6月8日、ピオ九世教皇によつて列聖された。
なお、この祝日は、ローマ規範版では「聖パウロ三木と同志殉教者」の記念日の名称で、
2月6日に祝われている。

2月6日  聖アガタおとめ殉教者

アガタはデキウス帝による迫害(3世紀)のときに、
シチリア島のカタニアで殉教したと思われる。
アガタに対する崇敬は、すでに古くから全教会で行われ、
その名前はローマ典文(第一奉献文)に加えられた。
「アガタ」とは「よいもの」の意味である。

2月8日  聖ヒエロニモ・エミリアニ

1486年にベネチアで生まれる。
軍人となったが後に兵役を辞し、全財産をも貧しい人々に配って
彼らを助けるために生涯をささげた。
孤児や貧者を援助するために、貧者のしもべ会(ソマスカ会)を創立した。
ベルガモ地方のソマスカで1537年に死去。


2月8日  聖ジュゼッピーナ・バキータおとめ

1868年ごろ、スーダン西部、ダルフール地方のアジレレ山の近くで生まれる。
幼いころに誘拐され、奴隷としてたびたび売買される過酷な日々を送った。
イタリアに渡った後に自由になるとベネチアで洗礼を受け、
カノッサ修道女会の会員となり、イタリア北部のビチェンツアに近い町
スキオですべての人のために献身的に働き、
1947年に同地で死去。

2月11日  ルルドの聖母

1858年2月11日に、フランスのルルド近郊のマッサビエールの洞窟で、
無原罪のマリアがベルナデッタに初めて現れた。
ベルナデッタヘの一連のマリア出現は、教会当局によって神聖なものとして承認され、
ルルドが国際的な巡礼地となった。

2月14日  聖チリロ隠世修道者  聖メトジオ司教


二人はテサロニケに生まれ、チリロはコンスタンチノープルですぐれた教育を受け、
兄メトジォと共に宣教のためにモラビアに赴いた。
二人は、後に「キリール文字」と呼ばれるようになった文字で、スラブ語の典礼書を作成した。
やがてローマに呼ばれ、チリロは869年2月14日に同地で亡くなった。

一方メトジオは司教に叙階されてから、
パンノニア(現在のハンガリー)に行き、福音宣教に献身。
多くの反対があったが、ローマ教皇たちに助けられた。
ヴェレラド(現在のチェコ)で885年4月6日に死去。

2月17日  聖母のしもべ会七聖人


七聖人はフィレンツェで生まれた。
初めセナリオ山で隠遁生活を送り、特に聖母マリアに対する崇敬に努めた。
やがてトスカナ地方全土で宣教し、聖母のしもべ会を創立、
1304年に使徒座の認証を得た。
七人のうちの一人である聖アレッシォ・フアルコニエーリが
1310年のこの日に亡くったと伝えられているので、
七聖人の記念がきょう祝われている。

2月22日  聖ペトロの使徒座

聖ペトロの司教座の記念日は、
使徒ペトロを礎として建てられた教会の一致のしるしとして、
すでに四世紀にローマで祝われていた。

2月23日  聖ポリカルポ司教殉教者

ポリカルポは使徒たちの直弟子であり、スミルナの司教であった。
彼は、殉教の地に向かって旅行を続けたアンチオケのイグナチオを、
スミルナであたたかく迎えた。
後に、復活祭の日付の問題について教皇アニケトゥスと
話し合うためにローマに赴いた。
155年頃、スミルナの闘技場で火刑により殉教。